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2007年10月06日

ベトさんが亡くなりました

 ベトちゃんが亡くなった。亡くなった時は26歳だったというから、もう「ベトちゃん」ではく「ベトさん」かも知れない。ベトさんは所謂シャム双生児で、1988年に手術で分離されるまでは弟のドクさんと文字通りひとつの体で人生を送っていた。ひとつの身体にふたつの頭。見るものに衝撃を与えるその姿はベトナム戦争の負の遺産の象徴だった。アメリカ政府がいくら否定しても、ベトさんとドクさんがシャム双生児として生を受けたのはアメリカ軍が散布した枯れ葉剤の影響があるのは間違いないだろう。あまりにも衝撃的であった双子を救うために、日本の医師も援助して分離手術を受けたり、ベトさんが脳症を発祥した際には日本で治療したりと海外からの人道的な援助も多くあったのだと思う。
 ベトナムを訪れるまで、ベトさんとドクさんはあくまでも「例外的な」ケースだと思っていた。確かにシャム双生児は特異中の特異かもしれないが、それほどには影響が重くない人は大勢いるのに僕は衝撃を受けたのだった。手首から先が曲がっている人、膝が普通の人と反対に曲がっている人、肘があらぬ方向に曲がる人、街を歩いていると明らかに外国人である僕に、そのような人々は皆寄ってくるのだった。勿論彼らの目的はお金だった。
 ベトさんとドクさんはその衝撃的な姿が世界中の耳目を集めたのだけれど、注目を浴びなかった人々もベトさんとドクさんの背後に大勢いるのだ。彼らは今でもベトナムで生活している。
 幸か不幸か症状が軽いがために海外からの援助が受けられない。なんだか矛盾しているように思うのは僕だけだろうか。


果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないために
果てしなき論争 ベトナム戦争の悲劇を繰り返さないためにロバート・マクナマラ 仲 晃

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stars歴史は繰り返すのか

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2007年09月08日

オキナワのはなし - 船影


石垣島の観音崎には
唐人墓がある。
文字通り中国人の墓である。

かつて「苦力」と呼ばれる中国人労働者が
労働奴隷として世界各地に送り出されていた時代があった。
特にゴールドラッシュに湧くアメリカ西部や
北米大陸横断鉄道の建設工事の労働力不足に対して
注目されたのがこの中国人労働者であったのだそうだ。
今から150年ほど前
やはり「苦力」を乗せた船が
厦門からカリフォルニアへ向って出航した。
輸送される「苦力」たちは
辮髪を切られたり
病人を海中に投棄されるなどの
暴行に対し蜂起し
その後船は石垣島沖に座礁した。
「苦力」は山中に逃亡したものの
銃殺され
逮捕され
100名以上が命を落としたのだそうだ。
石垣島の人々は
無念にも異国の地で命を落とした中国人を
哀れみ
墓を建てたのだという。

時を経た今でも
「苦力」は乗せてはいないけれども
石垣島の沖には貨物船が往来しているのであった。


(写真:石垣島)

2007年08月29日

オキナワのはなし - 遠くに久高島


沖縄県ができるまでの450年もの間
琉球を統治していた
王家である尚氏は
7代目までと
それ以降の王では
血筋が違う。
7代尚徳王は久高島で
女性に逆上せている間に
首里城で革命が起こり
王位を簒奪されたのだった。
それほどに
美しい女性のいた
久高島を見てみようと
海辺に行くと久高島は小さかったが
海はその分青かった。


(写真:南城市で)

オキナワのはなし - 黒人街


かつてのコザの町には
嘉手納基地の門前町として
沖縄最大の繁華街があったのだという。
繁華街には
白人街と黒人街があったのだという。
黒人の兵士は黒人街へ
白人の兵士は白人街へ。
黒人が白人街に行ったなら
ボコボコにされて
酒を飲むどころではなく
白人が黒人街に行ったなら
ボコボコにされて
遊ぶどころではない。
そんな時代があったのだという。
時代は流れ
かつての黒人街は
今では
シャッター商店街に。
往年の賑やかさは
微塵も感じられなかった。


(写真:コザ市の黒人街にて)

2007年08月15日

恥ずかしい

今日で戦争が終わって62年が経つ。
もう生きている日本人で戦争を体験している人は
少数であろう。
62年も経った今でも
日本に帰国しない日本兵がいる。
戦後も帰国しなかった日本兵と言うと
小野田少尉を思い浮かべるが彼ではない。
今この時も日本に帰国していない人がいるのだ。
その人はタイにいる。
今もタイで暮らしている。
でも日本には帰らない。
そんな彼の口から発せられた言葉は
「恥ずかしくて帰れない」だった。
除隊になる前に逃げたので
自分は脱走兵だから
恥ずかしいのだと言う。

- 恥ずかしい -

望郷の念は募るだろうに
恥ずかしさ故に帰らない。
日本の文化は
恥の文化などと言われることがあるけれど
今の日本は「恥ずべきこと」という感覚は
もう死にかけているような気がする。
帰還しなかった日本兵のインタビューを見て
かつての日本人の姿を垣間みたような気がした。

8月15日の特攻隊員
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2006年09月23日

伏見稲荷大社

 京都市伏見区に伏見稲荷大社という神社がある。京都駅からJR奈良線に乗って稲荷駅下車。駅舎を出ると、すぐに参道があって辿り着く。
 伏見稲荷大社は稲荷神を祀る全国約4万社の稲荷神社の総本宮だ。御祭神は稲荷神で宇迦之御魂神(うかのみたま)などの穀物の神の尊称らしい。宇迦之御魂神の「ウカ」には穀物・食物の意味があるのだそうだ。今では産業全般の神さまとして信仰されている。稲荷大社の縁起は、欽明天皇が即位(539年または531年)される前のまだ幼少のある日「秦の大津父という者を登用すれば、大人になった時にかならずや、天下をうまく治めることができる」と言う夢を見たことに始まる。早速方々へ使者を遣わして探し求めたところ、和銅四年(711)2月初午の日に秦伊呂巨が鎮座したのだそうだ。稲荷という名前は、秦伊呂巨が富裕に驕って餅を的にした時に、その餅が白い鳥に化して山頂へ飛び去っり、そこに稲が生ったのが起こりとされている。秦伊呂巨はその稲の元へ行き、過去の誤ちを悔いた。そこの木を根ごと抜いて屋敷に植え、祀ったという。その稲生り(いねなり)が転じて「イナリ」となり「稲荷」の字が宛てられた。ちなみに秦(はた)氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられている帰化系氏族だ。名前の由来が面白い。仁徳天皇に絹織物を献上し、天皇がこれらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったのがその由来とされている。その後雄略天皇の御代になると、秦公酒という者が天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったとある。太秦という地名の始まりである。太秦は秦氏の領地だったのである。
 僕が伏見稲荷大社に行ったのは、何処までも続くと思われる鳥居を見るためだった。本殿横の参道を行くと、噂に聞いていたとおり、鳥居が続いている。本当に何処までも続いているように思えてならない。進んでも進んでも終わりが見えないのだ。最初は平坦だった参道も次第に階段が現れて、しっかりとした山道になってしまう。汗が流れおち、息は上がる。しばらく行くと鳥居が終わって、一息をつくものの、まだ続きがある。そうこうしているうちに結局山頂まで登ってしまった。ひーひー、はーはー汗だくになりながら降りてくると、ひとりのおじいさんと行き違った。おじいさんはしっかりとした足取りではあるけれども、その進みは遅い。ゆっくりと参道を進んでいた。手には線香を持っている。線香には既に火がついていた。おじいさん、気が早すぎないか?おじいさんの足取りでは線香が燃え尽きるまでに辿り着けないような気が...。合掌。

世界遺産好きとしては、厳島神社にも惹かれます...

世界遺産 日本編4 (厳島神社/日光社寺)
世界遺産 日本編4 (厳島神社/日光社寺)緒形直人 鳥山雄司


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2006年09月09日

諸行無常の響あり

 祇園の町は八坂神社の門前町である。八坂神社と言うよりも、祇園祭りが行われる神社と言った方がイメージが湧くかも知れない。地元の人は祇園さんと呼ぶらしい。もともとは「祇園社」「祇園感神院」と呼ばれていたのが明治元年の神仏分離令(廃仏毀釈運動)により、今の呼称である「八坂神社」に改められたという。
 創建は西暦656年といわれているのだから、その歴史は古い。御祭神はスサノヲノミコト、クシナダヒメノミコト、八柱御子神と看板に書いてあるが、これは明治以降の御祭神で、明治以前は牛頭天王(ゴズテンノウ)、沙竭羅竜王(サガラリュウオウ)、頗梨采女(ハリサイニョ)だった。牛頭天王って誰?牛の頭と書くくらいだから、相当に頭の大きい人(?)だったに違いない。僕の中で顔の大きい人というと西郷隆盛かドラえもんなのだが、いかんせんそれだけでは牛頭天王の姿を連想するのは難しい。調べてみると牛頭天王は疫病神の一面を併せ持つ神で、疫病を撒き散らすと同時に親切に迎え入れた農民に対しては万病に効く術を授けたとも言われていることが分かった。そのような腹芸ができるのはドラえもんよりも西郷どんの方が相応しい、ということで僕の想像する牛頭天王は限りなく上野の森に佇んでいる西郷どんに近いものに仕上がってしまった。
 姿かたちはさておき、牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神なのだそうだ。祇園精舎はインドにあった寺院で、釈迦が説法を行ったとされる場所。そのため門前町が祇園と呼ばれるようになった。祇園はもともと外国の地名だったのね...。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」なんてあるからてっきり日本古来のものだと思っていた。確かに諸行無常だろう。気がついたら牛頭天王がスサノヲノミコトに代わっているのだから。正確にいうと牛頭天王はスサノヲノミコトと習合したことになっているらしい。いいですね。このアバウトな感じ。「いやぁお互い凄いのだから、ここはひとつ、同じ神さまで良いんじゃないですか?」なんて話し合っているのを想像してしまいます。

日本の神さまは大勢いますから...

神社の系譜 なぜそこにあるのか
神社の系譜 なぜそこにあるのか宮元 健次

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2006年09月08日

下鴨神社

 京都に行ってきた。久々の旅だった。京都に行くのは二度目なのだが、初めて行ったのは中学の修学旅行のときで、それはもう遥か昔のこと。今回が初めての上洛と言って良い。上洛なんて書くと大袈裟だな。気分は弥次さん、喜多さんです。
 京都の中心部は碁盤の目のように道が延びている。これは平安京の昔からだ。桓武天皇が794年に長岡京から遷都して、明治維新まで日本の都だった京都は、隋・唐の長安に倣って碁盤の目のように道が整備されたという。長安と違うのは城壁が無いことだ。平安京だけでなく、日本の都市には城壁が無いことが多いのだけれど、海外では繁栄している都市は当然略奪の対象になるのだから町を囲む城壁があることが普通であるように思う。日本には異民族の略奪者が突然登場することなんて無かったからかも知れない。いずれにせよ、桓武天皇はこの地を都に選んだのだった。
 そこでふと、疑問が浮かぶ。桓武天皇が都を置くまでの京都はどうだったのだろう。ただの草原?それとも荒れ地?と思っていたら世界遺産に登録されている下鴨神社にその答えがあった。平安京遷都以前のこの辺りは賀茂(鴨、加茂)氏の領土だったというのだ。下鴨神社の正式名称は「賀茂御祖神社」という。その名のとおり賀茂氏の祖先を祀っている。公式サイトを見ると『崇神天皇の二年(BC二)に神社の瑞垣の修造がおこなわれたという記録があり、それ以前の古い時代からまつられていたとおもわれます。』と書いてある。紀元前2年ですよ。イエス・キリストが産まれる以前の話です。本当かな?と思う前に神話の匂いを感じてしまうけれども、相当長い歴史を持つことには変わりはない。そして下鴨神社は上賀茂神社とともにもともとの領主だった賀茂氏の氏神を祀っている神社だった。その後桓武天皇が平安京遷都のため行幸、御親斎されてから皇室との繋がりが強くなったらしく、平安時代には皇城鎮護の神として高い地位が与えられている。それでは賀茂氏はどうしたのだろうと思うのだけれど良くわからない。代々下鴨神社の神事を統率していたようだが、ちょっと影が薄い。軽く調べたところでは方丈記を著した鴨長明が賀茂氏であることぐらいしか分からなかった。
 賀茂氏と天皇家との繋がりは古い。神武天皇(神話ですな)が東征の際に熊野山中の険路に阻まれて立往生したときに天より翔け下って神武天皇を助け、大和までの道案内をつとめたという神の遣い八咫烏は賀茂氏の祖加茂建角身の化身であったという。つまり鴨長明は八咫烏の子孫ということになるらしい。もうダーウインも真っ青ですな。キリスト教右派の人々も納得がいかないだろう。
 ちなみに三本足の八咫烏は日本サッカー協会のシンボルとして、日本代表のエンブレムにも用いられている。エンブレムをよく見ると三本足のひとつでサッカーボールを押さえていたりするのだった。

下鴨神社をもっと知るには...

世界文化遺産 下鴨神社と糺の森
世界文化遺産 下鴨神社と糺の森賀茂御祖神社 下鴨神社=


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2006年08月20日

あぐり

 現在スーパーアグリF1チームのオーナーとしてF1に参戦している鈴木亜久里氏がF1で注目を浴びだした頃、「亜久里」とはなんて変わった名前なのだろうと思っていた。「あぐり」という音からすぐに連想してしまったのは英語のuglyだった。でもそんな変な意味を子供につけるはずはないだろう。次に連想したのは、やはり英語のagriculture。いくら日本が農耕社会から発展した社会だとしても息子に農業・農耕なんて名前をつけるであろうか。ネットで検索してみると鈴木氏の名前の由来は根本進氏の漫画「クリちゃん」に登場する兄弟、アッチャンとクリチャンだという。そんな漫画知らなかった...。
 いずれにしても「あぐり」なんて非常に個性的な名前だなぁと思っていたら、日本では結構この名前の人がいるらしい。しかも一般的には女性の名前のようだ。
 歴史上の人物では赤穂浪士事件に登場する浅野内匠頭長矩の妻の名が阿久里であった。四十七士が吉良上野介を討ち取って幕命により切腹したあと、彼女は伊豆大島へ流された赤穂浪士の遺児たちの赦免運動に尽力したらしい。
 三浦しをんさんの本によると、「あぐり」というのは鎌倉時代から文献に登場する古い名前で「女の子はもうこれ以上いらない。この子で女の子は最後にしたい」という時に付けられた名前らしい。「止む」「終わる」という意味で「生みあがり」から変形して「あぐり」という名が出来たのだそうだ。つまり男の子につける留吉みたいなものなのだ。
 海外の名前にも同じような意味を持つものがある。Benjamin(ベンジャミン)がそれだ。旧約聖書に登場するヤコブの子供で、彼が末っ子だったことから一般的にはBenjaminは末っ子につける名前とされるのだ。
 でも子供を作るときって、図らずも出来てしまうこともあるのじゃないかな。留吉にしてもBenjaminにしても、その名を持つ人が末っ子でなかったら、それは両親が家族計画に失敗したことを意味している可能性が大なのだな。

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